今から20年以上前の事です。私が車に乗っていると激しい発作に襲われ病院に行くと、パニック障害と診断されました。
その時に、医者から処方された薬を一切飲む事なく捨ててしまった私は、独学で調べながら自分で導き出した考えを頼りにパニック障害を、3年半かかりましたが克服した経験があります。
結果的に私はパニック発作を克服する事ができたのですが、それと引き換えに私は友達を全員失ってしまいました。
その当時の私は、友達の前で発作を起こす事は絶対に嫌だと思い、毎日、色んな友達からの誘いをすべて断ってしまいました。
そして、私を誘いに来る友達は徐々に減っていき、最後には誰も来てくれなくなったという訳です。
独りになった私は、相変わらず発作を繰り返す日々が続き、夜もほぼ眠る事ができず、
「最後に今日眠ったら明日死のう」と思った事もありました。
結局、そう覚悟したら朝まで熟睡する事ができて、死のうという気持ちがウソのように消えてしまい、今もこうして生きています笑。
パニック障害を克服し独りになった私は、孤独を味わった経験から、私の使命に気付く事ができました。
私の使命は、私の経験してきた事を活かして、人の気持ちを明るくして勇気を持ってもらう事です。
つまり人を「やる気」にするために背中を押す事です。
私は、幼少期の頃から母による虐待が続き、常に母の顔色を伺い、母の機嫌を損ねないよう細心の注意をしながら生きていたという経緯が私の根底にあります。
母の気分次第で「虐待されるか、されないか」が決まるので、当時の私は母をよく観察し続け、母の機嫌を損ねないように振舞わなければいけませんでした。
その判断を少しでも間違えれば、母はヒステリックに怒り出し、幼い僕を板の間で正座させ、口の中がズタズタに切れるまで理不尽な理由で往復ビンタが飛んできました。
小学1年生の時に耐えられず母に「もう死のうかな」と訴えた事もあり、その後、私はPTSDの症状で生きづらい人生を歩む事になってしまいました。
私には、そんなベースが根底にあり、そんな中でさらにパニック障害や鬱や対人恐怖症も起こったんです。
そんな、生き地獄のような人生の中、3年半誰とも話す事ができなくなった孤独の時期を経験しました。
そんな経験を長年して来たことで、人がどのような事で明るく元気を取り戻せるのか、という事を詳細に分かるようになったんです。
孤独だった私は、「人からこういう言葉をかけて欲しいな」という想いが、常に心の中に明確に浮かんでいました。
そして、いつもその自分の想いに気付いていて、その蓄積で
「人がどのような事で明るく元気を取り戻せるのか」という事が分かるようになったんだと思います。
・人から、こう言ってもらえたら勇気が湧くだろうな
・人から、こんな事をしてもらえたら嬉しいだろうな
・人から、こう接してもらえたら感動するだろうな
こういった心の声に気付けるようになった結果、私の使命は
「人の気持ちを明るくして勇気を持ってもらう事」だと気付いたんです。
やがて私は、薬を一切飲む事なく鬱と対人恐怖症を自己流のリハビリで克服する事ができました。
その後、パニック障害を克服した私は、どうせ独りになったのだから、今までとは全く違う新しい人生にしようと決意しました。ただ、PTSDの症状はまだありました。
私自身の第二の人生の始まりです。
私は、それまでやっていた自営業を廃業し、見習いすらやった事の無かった、「まったく知らない世界」に何も知らない状態のまま飛び込んだんです。
困難に次ぐ困難だったのですが、なんとかバリ島のオーダー家具専門店「ROBIN」をゼロから立ち上げる事ができました。
元々モノづくりと家具が好きだったから、というのも理由の1つでしたが、1番の理由は友達から聞いた、
「ある話」と私の頭の中にあったモヤモヤとが繋がった事がキッカケになりました。
すると、私の店のソファーを見たJRナゴヤタカシマヤから催事の話を頂いたり、テレビに計3度取材取されたりして、たくさんのお客さまに恵まれました。
孤独だった私には、新しい友達もたくさん出来て、今までと180度違う人生になったんです。
その後は、幼少期の出来事で経験した、「人を喜ばせる事」をしたいという想いに引き寄せられ、
今の本業でもあるハンドメイドレザーアイテムのスタジオを2005年にオープンすると、こちらもテレビに取り上げられ、またしても多くのお客さまに恵まれたのです。
パニック障害になって孤独を味わい、肩で息をしながら真っ暗闇のどん底を、出口も分からず這っていたあの頃・・・こんな未来があるとは微塵も想像できませんでした。
すべてを失いどん底に堕ち、死のうと思ったあの日、私は一旦死んでリセットされたんだと思うのです。
発作の恐怖が24時間続き、治るがどうかさえ分からない毎日が辛すぎて、もう生きて行く事ができないと思っていました。
しかし、自己流のリハビリを通して何度も失敗を繰り返す中、どん底で拾った物の中に、大きなヒントが隠されていたんです。
その瞬間、それまでの視点が変わり、私は、
「あぁ、こういう事か」と、何かを掴んだ感覚があったんです。
すごく不思議でした。死のうと思っていた気分が一瞬で変ってしまったのですから。
そして私は気付いたんです。
人は変われるんだ、という事に。
その経験から私は自分の使命に気づく事ができ、その後新しい人生が創られたのだと思っています。
そして、手段を問わず、私の経験を活かした事で人を元気にして勇気付けるという使命を全うしています。
その後、20年が経った頃、私の母が末期癌と診断された事がキッカケで、ある飲み物が癌に良いという記事を読みました。
怪しさ満点でしたが、苦しむ母を見ていられなかった私は、
「果たして本当に癌に良いのだろうか?」
と思い、私自身が納得できるレベルまで、その飲み物について調べてみたんです。
私の母は、2015年に末期癌と診断され、苦しむ姿の母を見ていられなくなり、癌の正体について色んな角度からグーグル検索する毎日でした。
癌になると、一般的に抗癌剤治療が行われる事が多いと思います。
しかし、母はどう見ても明らかに悪化しているようにしか見えなかったんです。
母の病室に見舞いに行くと毎回必ず、病室の外にまで聞こえる母の苦しむ声を聞くたびに、
「この治療は正しいのだろうか?」
という想いが日に日に強くなりました。
その当時の私は、癌の事を何も知らないし、何も分からない私でした。
そんな「分からないから」という理由で、何の疑問も持たず、何も考えず専門家である病院の言いなりになってしまった私だったのですが、母の苦しむ声を毎日聞き続けた私は、
「果たして本当に抗癌剤治療は癌に効果のある治療法なのだろうか?」
と疑問を抱くようになり、どんどん深く調べてみたのです。
こういった話は、どうしても胡散臭いと思われてしまいやすい話だと思うので、興味のある人や、ご家族が癌を患って苦しんでいる人には、
「還元くん」というカテゴリーのブログ記事を読んで頂ければと思います。
本業が、ハンドメイドでレザーアイテムを作っているのに、なぜ畑違いの事をブログに書いているんだと思われるかも知れませんが、
私の経験を活かした事で、人を明るくし勇気付けるという使命に基づいているので、私にとっては何も不思議ではありません。
私の中では、どんな手段であろうと、人を元気にしたいという想いに変わりはないのです。
1つの本業だけを真摯に全うするべきだ、という固定観念に苛まれている人からすれば不思議な事なのかも知れません。
しかし、私の職業は「私に出来る事を活かした事で人を明るくし勇気付ける」事が私の職業です。
本業とかサイドビジネスとかは私の中にはありません。
どの仕事も、ゴールは同じで「人を明るくし勇気付ける」事だからです。
他にも、人生相談やカウンセリング&コーチングなどもやっていますが、すべては、
「私の経験を活かした事で人を明るくし勇気付ける」
という使命に基づいてやっています。
レコードの溝は、何本もあるように見えますが実際にはレコードの溝は1本です。
その1本の溝を辿っていくと1つの音楽になり、その音が人の心に届くのだと思います。
侘び寂びがあって1つの音楽になるんです。それと全く一緒だと思っています。
人それぞれですが、得意な事というのは、決して1つとは限りません。
侘び寂びと同じで、最終的に私が望んでいるのは、人を明るくし勇気付ける事なのです。
私の人生は一見すると、バラバラな事がまとまりなく綴られているような印象を持たれるかも知れません。
しかし、根底にあるのは、
「私の経験を活かした事で人を明るくし勇気付ける」
という事のみです。