末期癌だった母からの「告白」

僕の娘が2017年の4月に誕生したその裏側で、同時進行でもう1つの物語があった。

 

この時、僕自身に起こった衝撃的な体験をした時の感情を、僕自身が忘れてしまわないように書き留めておく事にした。

 

娘の誕生が「光」だとすると、その物語は正反対に当たる「影」の物語。娘が4月1日に誕生し、僕の父と母と妹が娘を見に来たのは、4月3日の事だった。

 

ちょうど、僕の妻の両親も来て、その場には笑顔だけがあった。

 

特に僕の母は、娘の誕生をとても喜び終始満面の笑顔だった。そんな母が、2017年8月18日、午前4時4分、69年で人生の幕を閉じた。

 

見るに堪えない壮絶な最後の一ヶ月間だった。

 

母の癌が発覚したのは27年の12月。ステージ4の子宮体癌で、翌年28年の2月、子宮の全摘手術をした。リンパも全て取った。

 

それから10ヶ月後の12月に体中への転移が見つかり、今年29年の2月から抗癌剤治療が始まり、愛知医大と自宅との入退院を繰り返す生活が始まった。

 

そして、6月頃に父が母の担当医に呼ばれ、余命宣告4ヶ月と告げられた。

 

その事は、母に知らせなかったが、どうやら母は死期を感じていたようだ。この頃から僕の携帯が鳴ると

 

「もしかして、、、」

 

と緊張が走る日が続いた。8月に入ると、いつ母の見舞いに行っても、

 

「苦しい~、苦しい~」

 

と、激しく苦悩する母の声が病室の外まで聞こえるほどで、毎回病室に入る事を躊躇した。

 

母が他界する5日ほど前、僕が1人で母の見舞いに行った時の事だった。

 

その日も、病室の外に母が苦しむ声が聞こえてきたので、一旦病室の前で足を止め、大きく息を吸い、自分の気持ちを強く持ってから病室に入っていった。

 

すると、僕に気付いた母が開口一番、なんの迷いもなく僕にこう言った。

 

「ひろし、ここに座って」

 

母はとても苦しそうに、力を振り絞って声を出しているのが分かった。なんか嫌な予感がした。

 

僕が、ベッドの母の左横に座ると突然、母が泣き崩れながらこう言った。

 

「お母さん、ひろしに謝らないといけない事がある。ひろしに一生の傷を負わせてしまった。今までずっと、ひろしの目をまともに見る事ができなかった。ずっと謝ろうと思ってたんだけど、今まで謝ることができなかった。ごめんね」

 

僕の右足に母の大粒の涙と鼻水がボタボタと垂れ落ちた。

 

僕は、予想していなかった母の告白に驚いたが間髪入れずに、

 

「そんな昔の事、謝る事なんて何もないわ。今は、自分の体の事だけを考えろ」

 

と言って、母の背中をさすった。母の背中は骨と皮だけだった。母は号泣しながら、

 

「なんでそんな優しいことを言ってくれるの?知らないうちに大人になったね。罪悪感がずっとあったけど、それでも、ひろしの事がお母さんの自慢でもあったんだよ」

 

と、母は言った。

 

僕は、確かに長年にわたり母に一生の傷を負わされた経験がある。そして僕は完全に母に心を閉ざしてしまった。

 

僕のこれまでの人生は、そのトラウマの克服のための人生だったと言っても過言では無い。幼少期に受けた深い心の傷は、大人になってからも完全には落としきれず何十年間経っても苦しかった。

 

しかし、この母の懺悔の告白を聴いた瞬間、僕は母のすべてを許せた。心を縛り付けていた、暗くて重い何かから解放されたような初めての感覚だった。

 

僕は、20年くらい前から、過去に母からされた仕打ちを思い出しても、母に対する怒りが一切湧いてこなくなっていた事から、母の事を許せたんだとずっと思い込んで、それまで生きてきた。

 

でも、母に会う時はいつも気が乗らない億劫な気分だった。

 

実際には心の奥で母を許せていなかったという事が、この日、母からの告白で分かり、母に会う時のあの億劫な気分だった理由の謎が解けた。

 

あの日、母の告白を聞いた僕の中で、40年以上も止まっていた何かが動き出すのが分かった。太い鎖が断ち切られたようにフッと心が軽くなる感覚だった。

 

そして、この日僕の中で何が起こったのか、という事を話の流れで母が他界する前日、妻に話す機会があった。

 

僕は、母に謝ってほしいなんて一度も思った事がなかったけど、母が僕に謝ってくれた事が、僕の中では予想外に大きくて、母に対する想いが180度変わった、という話だ。

 

妻に話す、その数日前、僕の運転免許証の書き換えがあった。

 

その時、講習の前に「さだまさし」の「つぐない」という実話の歌を聴かされた。そこで聞いた「償い」という歌の歌詞を引き合いに、僕がどういう思いになったのか、という話を妻に話した。

 

償いという歌の中に、「ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて、、、」と何度も繰り返す歌詞がある。

 

償いの歌詞を掻い摘んで言うと、ゆうちゃんという友達が、過去に妻子ある男性を車で轢き殺してしまい、その後、毎月働いたお金を長年ずっと送金していた。

 

すると、男性の妻から7年後に初めて手紙が届いた。その手紙には、

 

「ありがとう、あなたの優しい気持ちはとてもよく分かりました。だから、どうぞ送金はもうやめて下さい。それよりも、どうかあなたの人生を元に戻してあげて下さい」

 

と、書かれていた。送金し続けていたその友達は、手紙の中身なんてどうでもよかった。

 

それよりも、償いきれるはずもない、あの人から手紙が来たのが、ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて、、、という歌詞である。

 

僕もあの日、これと同じ気持ちになった。

 

母から、「どうかあなたの人生を元に戻してあげて下さい」と言われたような気持ちだった。

 

僕は物心つく幼少期からずっと、母に気に入られようと必死だった。母に認めてもらう事に一生懸命だった。

 

でも、母の望むような完璧な人には到底なれるわけがなく、母からの愛情をもらう事が出来なかった。

 

母からの愛情なんて、もうもらえないんだと諦めての47年間だった。

 

そしたら、母が僕に対して謝りたいという気持ちをずっと持ったまま今まで生きていたというのだ。母が、そんな気持ちで今までずっと居た、という事が分かっただけで、もう十分だ。

 

それだけで、ありがたくて、ありがたくて、ありがたくて、、、という想いだった。

 

その話を妻にしている時、堪える事が出来ず妻の前で初めて泣いてしまった。泣いたというより号泣した。妻は僕に、

 

「やっと泣いてくれたね」

 

と言った。あんなに厳しくて怖くて強かった母が、弱り果てて苦しみ、もうすぐ死んでしまうという想いもどこかにあって感情が抑えきれなかったのかもしれない。

 

僕にかけられた母からの呪縛が解けたからかもしれない。

 

それまでの僕は、「泣いたらダメ!男でしょ」といつも母に言われていた事を、ずっと忠実に守り続けていた。

 

僕に対して、時に理不尽さを感じるほどとても厳しい母だった。往復ビンタの雨に何度も見舞われた。

 

しかし、今思えば僕を自立した大人にさせるために、母が自ら嫌われ役に徹してくれたようにも思うし、

 

何より僕自身が我が子に対する理想的であろうと思う子育てが明確なのも、母が僕を育てる時の理不尽で自分の感情を最優先にした子育てを反面教師として捉える事ができるからだ。

 

僕のように悩みの多い生きにくい人とはかけ離れた子育て論が明確に分かるのは、母のお陰なのだ。

 

そんな母も、最後は昏睡状態の中、苦しまず息を引き取った事が、残された家族にとって、せめてもの救いだった。

 

母が亡くなる2日前の夜に、父から

 

「危ないみたいだから、心の準備をしておいて」

 

という電話があった。僕が予想していた以上に母の状態が悪かった事をこの時知った。

 

そして、8月18日午前3時過ぎに愛知医大から母の容態が急変したという連絡を受けた。

 

妻も一瞬で起き上がり手際よく支度をして、生まれて4ヶ月の娘をチャイルドシートに乗せると、娘も何かを悟ったかのように寝る事もなくずっと目を開いたままずっと静かにしていた。

 

真っ暗なグリーンロードを愛知医大方面に向け車を走らせる中、僕は妙に冷静でいつもと何も変わらない自分がそこに居た。

 

15分ほどで愛知医大に到着し、鍵を開けてもらうとエレベーターで6階に上がった。

 

その頃から急に重苦しい気分になった。妻もいつになく神妙な面持ちだった。

 

生後4ヶ月の娘は、何を感じているのかずっと目を開いているが静かにしていた。

 

僕たちのそんな気分とは裏腹に、電灯がこうこうと輝く大きなナースステーションの目の前が母の入院している病室だ。

 

僕は覚悟を決めてスライド式の扉をゆっくりと大きく開けた。

 

病室に入ると、ドラマや映画でよく見る、例の光景が目の前にあった。

 

抗癌剤治療で、髪の毛が全て抜け落ちガリガリにやせ細った体中には、無数の管が繋がり、口には人工呼吸器が付けられている母の姿だ。

 

左目だけが薄っすらと開き、かつての怖くて強かった母の面影はどこにもなかった。

 

一足先に来ていた父と妹が母の手を握って、妹が母の耳元で、

 

「お母さ~ん、みんな来たよ~」

 

と、声をかけたが、母の反応は無い。同席していた母を担当していた、まだ若い2人の看護師さんのうちの1人も、

 

「足立さん、みんな来てくれましたよ~」

 

と、声をかけるも母の反応は無いままだった。僕は、母の左手を握り

 

「お~い、ひろしも来たぞ~」

 

と声をかけてみたが、やっぱり反応は無い。妻も、

 

「お母さ~ん、、、お母さ~ん」

 

と、何度も声をかけていた。母は、僕たちが来たことすらもう分からないのだろうか、、、。

 

そして、想像していた以上に早くその時が来た。

 

僕たちが到着して5分ほど経った時、母が大きく息を吸うとそのまま帰らぬ人となった。

 

左目もゆっくりと閉じていったその時、母の目から涙が流れ、それに気づいた妹がその流れた涙を指で拭いとった。

 

母は分かっていたのだ僕たちが来たことを。

 

そのあと、母を着替えさせ死化粧を妻がしてくれたらしい。

 

悲しむ暇もないほど、葬儀屋に連絡をするよう促され、霊柩車が母を迎えに来た。なんてあっけないんだろう。

 

お通夜と告別式は、親戚同士、いとこ同士がとても仲が良い事もあり、笑いの絶えないとても和気藹々としたお別れになった。

 

ただ、棺の中の母の顔を見た時には、みんな泣いていた。まるで寝ているかのような顔をしていた。

 

妻は終始、思い出したように人目をはばからず泣いた。何回も泣くので、僕が、

 

「なにがそんなに泣けるんだ?」

 

と聞くと、

 

「私のお母さんは、私に甘かったから、あなたのお母さんみたいな厳しいお母さんがずっと欲しかった。だから、これからは厳しいお母さんと一緒で嬉しいな、と思ってたのにこんなに早く居なくなっちゃったんだもん」

 

と言った。母の大親友の友達と、母の姉である叔母さんも言っていたけど、母は僕の妻の事を、

 

「本当に良い子なんだよ」

 

と、大好きだったようだ。それを聞いた妻はまた号泣していた。

 

母は、僕の妻に物凄く感謝していたに違いない。

 

新しい命が誕生すると、それと入れ替わるかのように1つの命が消えていった。

 

最後に、厳しく育ててくれて、ありがとうお母さん。あなたの息子で良かったです。

 

 

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